リーマンショックからデフレ脱却議連までの動き

シェアする

コミケで「デフレ脱却戦記2:日銀貴族を討て!編」を発表!

「デフレ脱却戦記2:日銀貴族を討て!編」(A5版142ページ)をコミケで発表し、同時にアマゾンでも販売を開始します。コミケには「金子洋一コミケ事務所」で参加します。8月12日日曜日、東地区“ピ”ブロック-29b です。当日は私も一日中売り子として詰めます。暑さは覚悟の上です。ぜひ会いにきてください。旧作の「デフレ脱却戦記:消費増税をとめろ編」も販売します。芸能人ではないのですが、よろしければサインもさせていただきますのでお気軽に声をかけてください。

「デフレ脱却戦記2」は、日銀がいかに自らや金融セクターの利益のみを考え、円高ドル安を放置し、わが国全体の利益を無視していたのかについて白川前日銀総裁、黒田総裁らとの国会質疑での対決を私が解説したものがメインコンテンツです。今回はリーマンショックからデフレ脱却議連の立ち上げの動きをご紹介します。

【以下、「デフレ脱却戦記2:日銀貴族を討て!編」より引用】

米国発金融危機への対応 平成20(2008)年

平成20(2008)年、サブプライムローン問題は米国経済に大きな影を落としていました。その中でベアスターンズが資金繰りの危機に陥ったものの、4月にはひとまず小康状態を迎えました。

ところが少しでも経済がよくなれば引き締めようとするのが日銀貴族の悪癖です。さすがに事務方の振り付けだったのだろうとは思いますが学者出身の須田美矢子審議委員などは利上げの必要性を堂々と発言したほどでした。当の白川総裁も日銀政策委員会6月会合で、「大手の金融機関が突然破綻することを最悪期、危機だと言っている。」、「たぶん、危機、最悪期は去ったのだろう」と発言しました。これまで2000年のゼロ金利解除、2006年の量的緩和解除でもみられた致命的な判断ミスをここでも繰り返したのです。

ところがその後、9月にリーマンブラザーズが破綻し、金融危機が本格化しました。リーマンショックの到来です。

アメリカ、イギリス、EUを始めとする先進諸国は、民間部門を救うために財政出動や中央銀行のバランスシートを2倍から3倍に膨らませ、ベースマネー(中央銀行が市場に直接供給するマネーのこと)をふんだんに供給するという、過去に前例のない大規模な金融緩和を行いました。その結果、各国は深刻なデフレに陥ることはなく、失業率も恐れられていたほど上がることはありませんでした。

一方、わが国ではどうだったのでしょうか。経済財政相の与謝野馨氏は「日本にももちろん影響はあるが、ハチが刺した程度」と嘯き、また、白川総裁も「全体として、わが国金融システムの安定した状態が脅かされることはないとみています。」と銀行セクターのことしか考えず、危機感に欠如していました。白川総裁も金融機関への気遣いとして短期的資金は供給しましたが、肝心の円高の及ぼす生産や輸出への悪影響といった実際の経済の動きをまったく無視しました。つまり自らのOBの天下り先である金融機関のことしか考えなかったのでした。日銀という組織には円高がどれだけわが国の輸出産業に打撃を与えるのか想像する能力に欠けていたと言わざるを得ません。

結局わが国ではまともな金融政策による対応は行われず、その結果、大幅な円高ドル安、円高ポンド安が生じ、政策当局から見捨てられた産業界は辛酸をなめました。なんとかしてこの円高をなんとかしなければ、わが国からすべての工場が海外へ移転し、ものづくり産業がなくなってしまう、そう思ったのは私だけではないでしょう。

平成20(2008)年10月31日には0.2%の金利引き下げと形ばかりの金融緩和が行われましたが、その後の記者会見でも白川総裁は、「金融緩和効果を上げていくことだけに焦点を合わせれば、金利引下げ幅を大きくするという考え方も出てくると思いますが、一方で、金利引下げ幅を大きくしますと、短期金融市場を中心に金融市場の機能に悪影響が及ぶ可能性があるため、両者はトレードオフの関係にあると言えます。」とまったく的外れな危機感のない発言をしていました。

その後、平成21(2009)年には政権交代が起き、民主党政権ができました。私もその後の10月25日投票の神奈川選挙区補欠選挙で初当選させていただきました。私の日銀貴族との戦いが始まりました。

デフレ脱却議員連盟を立ち上げる 平成22(2010)年春

さて、国政選挙三回目の挑戦で念願の初当選を果たしたものの、翌年7月には早くも参議院議員としての改選を控えていたため、残りの任期はたった9カ月しかありませんでした。自分の損得だけを考えれば、選挙のための地元活動だけやるべきだったのでしょうが、これだけ日本経済が痛めつけられて、デフレ脱却を実現しなければならないときに地元活動ばかりやっていたのでは、いったい何のために当選したのか分からなくなってしまいます。そこで私は衆議院議員の宮崎タケシ氏と共に「デフレから脱却し景気回復を目指す議員連盟」(デフレ脱却議員連盟)を結成することにしました。

当時の民主党には「議員連盟をつくってはならない」という風潮がありました。「党と政府は一体」であり、政府が政策を実現させるのだから、党のなかで議員連盟をつくって勝手に動くのではなく、政府に直接働き掛ければいいというのがその表向きの理由でした。そんな状況下であえて私と宮崎氏は議連結成を目指したのでした。初めは、議員連盟が駄目なら『研究会』にすればいいのではないかという意見もありましたが、議員連盟と研究会では周りに与える影響力が格段に違います。しかし私も宮崎氏も当選してわずかに数ヶ月の1年生議員。会長は誰かにお願いしたほうがいいと考えました。われわれが会長に最もふさわしいと思い付いたのは松原仁氏でした。

そこで、私と宮崎氏は松原氏の元に行き、「デフレ脱却議員連盟をつくります。先生は会長に最適の方だと思っています。ぜひ会長に就任してください」とお願いをしました。松原氏は一言「おう、いいよ」と快諾してくださったのでした。こうして松原氏を会長に、私と宮崎氏が衆参の事務局長という形で、2010年3月にデフレ脱却議員連盟が正式に始動しました。

結成後はイェール大学名誉教授の浜田宏一氏(現・内閣官房参与)や学習院大学教授の岩田規久男氏(前・日銀副総裁)などもお招きし、さらに150人ほどの民主党議員も参加して、「大胆な金融政策」を実現させるため協議・活動を続けることになりました。

翌平成22(2010)年7月には参議院議員本選挙で神奈川選挙区から二回目の当選をさせていただきました。当選を果たすと早速、「デフレ脱却プログラム」を書き上げ、議連からの提言として発表しました。当時の与党の中での動きですからインパクトがありました。さまざまなマスコミにも取り上げられ、「金融政策でデフレ脱却を!」という機運が国会で一気に高まりました。

さて、そのような中で日銀は「包括的な金融緩和」と称して平成22(2010)年10月5日に形ばかりの金融緩和を行いました。世論の盛り上がりに対してアリバイを作ろうとしたものだったのだろうと思いますが、内容は不十分なものでした。

白川総裁は当日の記者会見で「私どもは、この中長期的な物価安定の理解を念頭に置きながら、先々の経済・物価情勢を点検していき、その結果として、物価安定のもとでの持続的な成長経路への展望が拓けていくかどうかについて、毎回の決定会合あるいは毎回の展望レポートで点検をしていき、その上で、そうした私どもの経済・物価の見通しをしっかりと示していくわけです。機械的な公式があり、この公式で金融政策が運営できるのであれば、そもそも中央銀行はいらないわけです」と述べました。こうした発言を聞けば、複雑な作業が必要ではあっても誰の眼にも明確な判断基準がいくつかあってそれらに基づいて総合的な判断を下しているように聞こえます。しかしそれがそうではなく独善的なものであったことが私と白川総裁をはじめとする日銀官僚との質疑であきらかになるのでした。