「エコノミスト政治家」として出馬するまで

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私が質疑に立っていた2014年3月5日の参議院予算委員会の席上で、安倍首相から次のような答弁があった。「現在、私どもが進めております政策につきましては、野党時代、エコノミストとしての金子委員にもいろいろと御指導を頂いたわけでございまして、だいたい委員のおっしゃった方向に向けて今政策を進めているところでございます」

民主党が政権にあったときから、リフレ政策実現のために、野党である自民党の、当時は執行部を離れていた安倍氏に対しても働き掛けていたことは、痛くもない腹を探られるのが嫌だから秘密にしていた。しかし今となっては総理による国会答弁でも世の中に明らかになってしまった。これもデフレ脱却への努力の一環だったのだ。

本章ではこれまでどういう道のりを辿って私が官庁エコノミストとなり、また政治の世界に足を踏み入れたのか、そして政治家として景気回復のために何をしようとしているのか説明したい。

労働組合の委員長だった父の影響

私の父、駿介は「民社党」(※ 01 )に結党時から所属する神奈川県会議員だった。民社党は安全保障の重要性を訴えていた保守政党で、しかし自民党のような大企業を中心とする政策を採るのではなく、主に労働者の立場から活動する政党だった。現在の政党で例えるなら、私が所属している民主党の「右派」である。

父は元々「松竹大船撮影所」の労働組合の委員長を務めていた。当時も今も映画の世界はリベラルの影響が強く、父が委員長だった頃は、映画の労働組合の大半は「共産党系」だったという。しかし父はそういった環境のなかで「非共産党」の立場を貫く委員長だった。そのため親しい友人などからは「日本で革命が起きて、共産主義・社会主義政権が誕生したら、お前のような『反共主義』の立場で労働運動をやっている人間は、真っ先に収容所に入れられる」と言われていたそうだ。今になってみれば笑い話かもしれないが、当時の日本では安保闘争(※ 02 )などで判るように、現在とは比べ物にならないくらい左翼の影響が強い時代であった。本当に革命が起こるかもしれないという雰囲気も漂っていたそうだ。しかし父は自分の思想を貫いて活動した。父も私も左翼的な思想が駄目だとは言わない。繰り返しになるが、いろいろな思想があってもいいのだ。しかしかつての左翼が目指した「暴力をもって政権を転覆させる」とか、「外国の勢力と結び付く」ことは絶対にやってはならないことだと思っている。それがわが家の考え方だった。わが家の祖先は山口県下関に住んでおり、わが家では「吉田松陰」とは言わず、「松陰先生」と言う。「中国革命の父」とされる孫文とも交流があったという。父は子どもの頃、陸軍幼年学校を受験したが、結核が見つかり、終戦時には潜水艦による「パナマ運河特攻」の要員として訓練を受けていた。いわば特攻隊の生き残りだった。そういった環境で育ったため、私には子どもの頃から政治が身近なところにあり、自然と保守的な思想を持つようになったのだ。

父は横浜市長選を始めとする選挙で3連敗し、負債は膨れ上がった。また、母は横浜・福富町のキャバレーで働いて、月謝は滞納しがちだったが私を私立の中学・高校(聖光学院)に送ってくれた。

※ 01 民社党 1960年に結党。民主社会主義・反共主義を掲げた保守政党だった。1994年に新進党と合流する際に解党。

※ 02 安保闘争 1959年から1960年までの間と、1970年に二度にわたって日本で展開された反政府・反米運動。日米安全保障条約などに反対する学生など国内左翼勢力が活動し、国会を取り囲んだり、ヘルメットとゲバ棒で武装して投石や火炎瓶を投げ機動隊と衝突するなどした。

父が1999年(平成 11 年)に亡くなったときには、一切の財産もなく、ただ借金しか残っていなかった。生前「後援会のバス旅行はやらない」と言っていたが、当時はバス代だけで、弁当も飲み物もお土産も付けるといった手合いが横行していたのだった。しかし父はサービス合戦などではなく、政策で勝負するのだという信念があったのだと思う。だからこそ選挙には弱かったのかもしれない。

官僚を志し東京大学に再入学

私は学生時代から「世の中に貢献したい」という思いがあった。ジャーナリストを志したのも、そうした思いからだった。そしてメディアの世界に入ることを諦めた私は、公のために働くのだったら国家公務員、いわゆる官僚になればいいのではないかと考えた。しかし当時在学していた早稲田大学政治学科の場合、公務員試験の受験区分は「行政職」がほとんどだ。国家公務員は行政職の募集人数は少なく、文系の大半は「法律職」と「経済職」である。そのため政治学科から官僚に進む道は主流ではなかったし、事実官僚になった卒業生はあまりいなかった。そこで私は違う大学の違う学部に入り直し、「法律職」や「経済職」に就くための勉強をしたほうがいいという結論に達し、もう一度受験して、東京大学に入学したのである。2年間通った早稲田大学は中退した。

東大では主に政治学と経済学を学んだ。そしてこの4年間は、今でも師と仰ぐ先生との出会いもあった。戦記作家の児島襄氏、政治学者の佐藤誠三郎氏、そして経済学者の根岸隆氏だ。この3名はそれぞれの分野で一流の先生であり、その後の私の考え方を形作る上でも、非常に大きな影響を与えてくださった先生だった。

児島襄氏は大学のゼミではなく、有志の学生たちでお呼びして、戦史や軍隊の歴史について教えていただいた。氏には「東京裁判」を傍聴した経験があり、戦勝国が事後法で日本を裁いたこの裁判に疑問を感じたことから、戦史・歴史研究家としての活動を始めた方だ。戦前の軍部に対しては「官僚主義的」だという理由から批判的だった。官僚主義の欠点は、「自分の行動は常に正しい」と思ってしまうことにある。そのため何かに失敗しても、その反省を活かして次に繋げるということができない。「軍部はそういう体制だったから、日本は先の大戦で約三百万人の犠牲者を出し、結果的には敗戦してしまったのではないか」と主張していた。こういった視点から歴史を学んだことが、私がいわゆる「官僚制」に大きな疑問を持つことに繋がったのだった。

佐藤誠三郎氏は、当時政権を担っていた中曽根康弘内閣でブレーンを務めていた方で、政治学や安全保障の講義を担当していた。氏からは政府を動かすための方法について教えてもらった。また、安全保障についての講義も多く、核戦略や当時「スターウォーズ計画」と呼ばれて いた「SDI」(※ 01 )について学んだ。氏は極めて保守的な方だったが、しかし講義では自分の 価値判断を前面に押し出すということはなかった。学生の考え方を歪めてはならないという氏の判断だったのだろうと思う。そういった氏の姿勢の影響を受けたためか、私は思想にはこだわらず、人とお付き合いするようにしている。

根岸隆氏は日本を代表する経済学者だ。経済学部3年のときのゼミではポール・クルーグマンの貿易論の著書が教材だった。そのため、私は大学時代からクルーグマンの名前に親しむことができ、後に日本の長引く不況についてクルーグマンが意見を述べた際も、違和感なくすんなりと受け入れることができた。

また、大学では1年生のときに「行政機構研究会」という学生サークルを設立した。この会は設立してから数年で、当時の駒場キャンパスで最大の文化系サークルとなった。当時、社会科学を勉強するサークルは学内にもたくさんあったが、そのほとんどが何らかの外部の政治団体や政党と繋がりがあるものだった。私はそういった勢力から離れた形で、自由に世の中を見つめ直すことができる場をつくり出したかった。純粋に利害関係から離れて勉強ができるのは学生の間だけだ。また大学というのは、資格試験に合格するための予備校としての意味だけを持つわけではない。今は霞が関の官僚や国会議員のなかにも、行政機構研究会のOB、OGが大勢いるが、こうした初心を忘れずに活動してくれればありがたい。

※ 01 SDI 衛星軌道上にミサイル衛星やレーザー衛星、早期警戒衛星などを配備し、地上の迎撃システムが連携して敵国の弾道ミサイルを迎撃、撃墜することを目的に開発された。正式名称は「戦略防衛構想」( Strategic Defense Initiative )

経済企画庁でエコノミストとして修業

国家公務員試験に合格した私は、1989年(平成元年)に「経済企画庁」に入庁した。2001年(平成 13 年)の「中央省庁再編」(※ 01 )によって内閣府に組み込まれたが、当時の経済企画庁は、経済動向を調査・分析するなど景気に関する業務、経済対策を取りまとめる業務、そして消費者行政などを行っていた。

私は、白書の執筆、経済対策の取りまとめ、国際的な折衝、景気動向の分析・判断、公共料金の査定などの仕事を担当させていただいた。給料を貰いながら勉強させてもらったようなものだった。

入庁して私が気が付いたことは、霞が関のなかにいると「実際の経済の動きが体感し難い」ということだ。統計データなどを見ることはできるのだが、各業界の企業や、現場で働いている労働者の話を聞く機会が極めて少ないのである。私はこの頃から、現場の声を直接聞くことが大切だという意識を持っていたつもりだった。しかし経済企画庁で勤めていた当時、現場から集めた声を活かして職務を全うできていたかというと、やはり十分ではなかったように思う。そのため入庁した直後のバブル経済についても、結局は何がなんだかわからないままに過ぎていき、気が付いたときにはバブルが弾けて、日本の経済状況は一気に悪化してしまったのだった。このときの反省は現在でも私のなかに強く残っている。だから政治家になった今、私は常に現場の声を聞くことに努めている。霞が関にいて統計データを睨んでいるだけでは、すべてを知ることなどできない。自分で足を運び、多くの人の話を聞くことで、初めて知ることはたくさんあるのだ。

※ 01  中央省庁再編 中央省庁等改革基本法によって、2001年1月に施行された中央省庁の再編統合。内閣機能の強化や事務・ 事業の減量、効率化することを目的に、それまでの「1府 22 庁」から「1府 12 省庁」に再編された。

イングランド銀行の副総裁の言葉に衝撃を受ける

1997年に消費税が3パーセントから5パーセントに引き上げられ、景気は悪化した。不良債権に悩まされ、北海道の拓殖銀行や山一証券が倒産した時期だ。

翌年、私は随行者としての海外出張の際に、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行の副総裁と面談する機会に恵まれた。副総裁は消費増税と金融危機で低迷している日本の経済状況を踏まえてこう発言をしたのだ。

「日本に大きな銀行は三つか四つあればいいではないか」

その言葉を聞いたとき、私は「ずいぶんと大胆なことを言う人だな」と思った。当時の日本には都市銀行だけでも 10 を超える銀行があった。私は日本の経済状況を最も把握しているはずの霞が関のなかにいた。日本では「銀行はそのままの形で残さないといけない」と言われていた。しかし副総裁は日本を外から眺めることで、状況を冷静に把握することができたのだろう。私たち官僚には気が付かないことまで見ることができたからこそ、銀行を大胆に整理してしまったほうがいいという発想が生まれたのだろう。何よりその後の日本を見れば、副総裁の考えは正しかったことになる。私はすぐそばの霞が関にいて、正しい答えを見つけることができなかった。しかし副総裁は地球の反対にいるにも拘らず、答えを導き出していたのだ。このことは私に大きな衝撃を与えた。やはり霞が関の官僚のやり方には限界があるのではないかと、強く感じた出来事だった。

金融引き締めを断行した日銀に対して感じたこと

1990年(平成2年)のバブル最終期に、日銀によって「バブル潰し」が行われた。土地や資産の価格を急激に下げる「金融引き締め」が断行されたのだ。しかしこの引き締めが急激だったことにより、結果的には「失われた20 年」の引き金になってしまった。

当時の日銀は「旧日銀法」(※ 01)の下にあり、引き締めの際にも政府の許可を得なければならなかった。大蔵省(現・財務省)や通商産業省(現・経済産業省)、そして経済企画庁(現・内閣府、消費者庁)と協議をして話をまとめる必要があったのだ。当時は、むりやり金融を引き締める必要はなかった。しかし日銀は引き締めにこだわったのだった。そんな日銀に対して、経済企画庁の物価局は常にこのように意見していたようだった。「景気の状況から見ても引き締めは好ましくない。物価は落ち着いているのではないか」

当時はまだ日本の経済状況は今と比べれば良かったため、各省庁が好き勝手なことをやっていても、それほど大きな問題にはならなかった。しかしひとたび経済状況が悪化した場合、各省庁がバラバラで、統一の戦略がないままで果たして日本という国を保ち続けることはできるのだろうかと、私のなかで問題意識が芽生えたことを覚えている。ただ、有り難いことに私は霞が関では官庁エコノミストとして様々な経験を積むことができた。例えば、景気動向指数を作る係長を2年間やり、毎日、経済指標と睨めっこする経験をした。また、女性の社会進出をテーマにした白書の作成にも携わらせていただいた。こうしたことにより、経済を考える基本的なセンスを身に付けることができたように思う。経済を論ずる学識経験者には、特にわが国の場合、理論だけは知っているが、実際の経済を知らない人間が多い。そういった実状を鑑みると、いきなり理論を学ぶのではなくて、下積みの訓練は必要だ。日本とは違い、諸外国の経済学者や中央銀行総裁にしても、クルーグマン、スティグリッツ、 バーナンキ、イエレンなど、エコノミストとしての経験を積んでいる人間が多く、それだけに発言は現実を踏まえ重いのである。

1998年春、経済対策の取りまとめをする調整局調整課の次席課長補佐だったときに、ポール・クルーグマンの「日本は景気回復のためにインフレ目標を取るべきだ」とする提言と出会った。当時、経済企画庁調整局内でも、直ちにその提言は話題となったが、それに対してある経済通の課長がつくった反論は、「物価が上がれば直ちに金利も上がるので、結局実体経済に何の効果もない」とするものだった。すべて調整され尽くした長期的状態ではこの反論は成り立つが、短期的には成立しない。そして需要不足で起きる不況は短期的な現象なのだ。この反論が対外的に公表されたかどうかはわからない。しかしこの程度の内容の反論しか、当時の経済企画庁でも検討されていなかったということは、財務省と日銀の議論のレベルの低さも推し量られる。結局クルーグマンという、世界最高水準の経済学者にしてエコノミストの真剣な提言は、当時のわが国政府では、どこの部署でも真剣に検討が行われることがなかったのではないだろうか。

※ 01  旧日銀法 1997年に改正される以前の日銀法を指す。法改正によって政府の広範な監督権限が大幅に見直され、日銀の独立性は強化されることになり「日銀法改悪」という声も多い。

霞が関官僚制への疑問

当時、一介の役人に過ぎなかったが、日本の官僚制に疑問を感じた私は、学生時代に師事した児島襄氏から聞いた戦前の軍部の話を思い出していた。前述したが、軍部は自分たちの過去の行動をすべて正当化していた。例を挙げれば戦術についても、過去の戦術をそのまま繰り返していた。先の大戦でアメリカと戦っていた当時、一度だけの戦闘ならばそれで成功していたかもしれない。しかし戦争は何年にもわたって続くものであり、その間にはいろいろな場所で何度も戦闘が繰り広げられる。すると二度目以降の戦闘では、過去の戦術は相手に読まれて通用せず、結果的には多くの兵士が犠牲になっていた。しかしそんな状況でも、当時の軍の幹部は自分の否を認めず、同じことを繰り返していたのである。

中国ではその王朝の歴史は次の王朝にならなければ書かれなかった。それだけ利害関係者が多いからであろう。各国では戦役の後、戦史を編纂する。それは日本も同様だった。陸軍参謀本部がその戦争でどのような失敗をしたのか、そしてその失敗でどれだけの損失が出たのかを書き残すことで、その反省を活かして、次からは同じ失敗を繰り返さないためにどう改善するのかを考えるためのものだ。例えば物資補給が途絶えて、前線の兵士たちが食糧に在り付けず、飢餓状態に陥ったという現実があったなら、次の戦争ではそういった状況に陥らないように 「戦訓」を得る、それが戦史を編纂する最大の目的だ。実際に兵姑の分野は日本軍にとって鬼門だった。しかし編纂するとき、実際に戦地で軍を指揮した将軍や将校は、まだ現役である場合が多い。にもかかわらず、仮に戦史で彼らの失敗を記録したとすると、その将軍や将校は自分の地位が危ういものになるし、失敗の責任は誰が取るのだという話にもなる。だから日本の軍においては、戦史は本来の目的を忘れ、失敗を書かなくなってしまったのだ。

海外の軍隊はもっとシビアだという。例えばアメリカは、過去の戦争に対してしっかり反省・評価をして次に繋げている。そして何よりアメリカでは「抜擢」をする。これは軍隊において、士気を高めるためにも非常に重要なことだ。先の大戦以前の日本では、アメリカと同様に抜擢を行っていた。例えば日清戦争以降、既に「いいことばかりを書き残す」傾向は出てきていたものの、それでも予備役寸前だった東郷平八郎を連合艦隊の司令長官に任命できたのである。しかし先の大戦の頃になると、既に官僚制が定着していたため、帝国陸・海軍共にこのような抜擢はなかった。陸軍大学校を何番目の成績で卒業したのかが重視されていたのだ。例えば3番目の成績で卒業した軍人と5番目の成績で卒業した軍人がいたら、前者のほうが先に出世するという官僚制が定着してしまった。これでは現代の霞が関と全く同じだ。大蔵事務次官になった方に在職中に聞いた話なのだが、当時の大蔵省では国家公務員試験の成績で、入省後の出世の順番が決まっていたそうだ。もちろん、酒席での話でもあり、多少の誇張はあるかもしれない。しかしかつての軍部と同様のシステムが現代においても残っていて、それが大きな問題を生じる原因になっているということは、誰が見ても疑いのないことだろう。

繰り返しになるが、軍部の体制はまさに官僚制そのものであり、現代の霞が関の官僚もまた、同じ欠点を持っているのだ。私は大学時代に児島襄氏から軍部の行状を学び、霞が関に身を置いて多くのことをこの目で見ることで、官僚制に大きな疑問を抱くに至った。その思いは今も変わらず、官僚制を何とかしなければならないと強く感じている。もちろん、日本の複雑に入り組んだ社会は、官僚がいなければ動かしていくことはできないだろう。しかし日本をより良くしていくためには、過去の反省を踏まえることは大切だ。ましてや仲間内の失敗を隠したり、自分だけが正しいと勘違いすることはあってはならないはずなのだ。こうしたことは、もちろん官僚制と対決しなければならないわれわれ政党自身にも当てはまることだ。

OECDエコノミストから転身を決意

官僚制のあり方に疑問を募らせつつも、私は日々の職務に追われていた。2001年からは、フランス・パリの「OECD」(経済協力開発機構)の本部に赴任が決まり、エコノミストとして 「DSTI」(科学技術産業局)で2年間勤務した。余談になるが私がフランスに発ったのは7月15 日で、この日の午前中にそれまでお付き合いしていた妻と入籍して、その足で成田空港に向かった。そのため私は派手な結婚式や披露宴などは行わなかった。

パリでは、消費者委員会直属のエコノミストとして、電子商取引やインターネットに関するガイドラインの取りまとめの業務に当たった。そしてパリでの2年間の任期が終わりに近づいてきた頃、私は日本にいる知人・友人に「そろそろ帰国する」という連絡をした。そのなかには衆議院議員の古川元久氏も含まれていた。氏は大学の弁論部の同期だが、私より一足先に、1996年の第 41 回衆議院議員総選挙で民主党から初出馬、比例東海ブロックで復活して初当選を果たした方で、その後は野田内閣で内閣府特命担当大臣を務めるなどした現職の議員である。そして氏は、「日本に戻ってくるなら選挙も近いし、空いている選挙区があるから立候補してみたらどうだ」と、出馬を誘ってきたのである。私はわが国の官僚制のあり方に強い疑問を持ち、変えなくてはならないと思っていた。そのためには「いつかは政治家になりたい、ならなければならない」という思いを抱いていた。そこでこの誘いを受け、パリの地で出馬を決意したのだった。いばらの道が待っていたことはもちろん知らなかった。


金子洋一著日本経済復活のシナリオ-官庁エコノミスト出身の政治家がデフレの元凶を斬る!(平成26(2014)年11月刊)より抜粋し改訂。なお、記述は当時のものです。