バブル崩壊からデフレの脱却へ:リフレ政策からの観点

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

ここではリフレ政策派のロジックに基づいて、バブルの崩壊から今回の景気回復までを概観したい。リフレ派の見方を採用するのも、私自身構造改革派のロジックではどのように説明できるのか見当がつかないし、またどこを探しても構造改革派による説得力のある説明が見あたらないからである。

まず、デフレの前提となるのが、昭和60年代に、株式、土地などの資産価格が、過剰流動性を背景にバブルを呼び起こし高騰していたことである。このバブルに対する引き締めのタイミングが必要以上に遅れたことによって、金融引き締めが必要以上に急激なものとなった。その結果、土地や株式によって構成される資産価格が急激に下落した。各経済主体はその速度に合わせた調整を行うことができなかった。いわゆるバブル期には、消費者物価指数(CPI)やGDPデフレータはせいぜい2%~3%程度の上昇と安定していたが、これらの指標に取り入れられていない土地や株式などの資産価格の高騰にはすさまじいものがあった。これら資産価格の高騰は、無用の景気過熱につながるため、これを金融政策で押さえ込もうとしたことは当然の判断である。しかしながら、政府当局は、GDPデフレーターなどが安定していたことに気を取られてか、あるいは、当時の海外経済の情勢に配慮しすぎたためか、本来ならもっと早めに穏やかに取られるべき金融引締政策は、極めて遅いタイミングから急激なブレーキをかけるものとなってしまった。

今から見ても、当時の金融引締め政策は急激なものであった。平成元(1989)年から翌年にかけては、5回もの公定歩合引き上げが行われた。これは民間企業やステークホルダーの活動に大きなショックを与えるものであった。経済規模が急激には縮小しない(つまり貨幣の取引的需要には変わりがない)状態で、マネーサプライ(M2+CD)は平成3(1992)年には前年比マイナスに転じた。そのしわ寄せは株式、土地といった資産価格に直ちに現れた。これらの資産価格は、ピーク時の約4分の1にまで暴落してしまった。

このことによって、土地を担保に企業融資を行っていた金融機関は大きな不良債権を抱えることになった。借り手である企業も売り上げの減少と資産価格の暴落のダブルパンチに見舞われた。家計も、住宅ローンを組んだ家庭などでは実質的に大きな負債を抱え込むこととなった。この不良債権の問題が金融機関のシステミックリスクにつながり、このころから平成10(1998)年まで不良債権問題と、金融機関の破綻の可能性が我が国の主たる経済問題であった。

この状況を下支えするため、政府も度重なる経済対策を打った。その結果、財政赤字も膨大な金額に至った。「家計も赤字、企業も赤字、政府も赤字」というのは昭和22年の第1回経済白書(経済実相報告書)の名文句であるが、1990年代後半の日本もまさしく経済敗戦とでもいうべき状態に至った。

平成13(2001)年に発足した小泉純一郎内閣は発足当初、不良債権処理などの構造改革をスローガンとして掲げていた。また、同時に当初国債新規発行を30兆円以下に抑えることを政策に掲げていた。ところが、平成14(2002)年以降はそれを実質的に撤回し、デフレ対策を重視するようになった。

また、平成15(2003)年3月の就任当初は速水前総裁の路線を継承すると見られていた日銀福井総裁が実質的にリフレ政策に近い金融政策を取ったことも重要であった。財務省による度重なる円売りドル買い介入は、日銀によって非不胎化され、円の供給量は増えていった。

民間企業は、正規雇用を絞り、非正規雇用を大幅に増やすなどコスト削減に取り組んだ。そのしわ寄せは特に若年層に現れ、ニートやフリーターが社会問題(いわば構造問題である)となった一方で、企業にとってこの取り組みは、デフレ下にあっては実行が難しい実質的な賃金引き下げと同じ人件費削減の効果をもたらした。

これらの施策と民間企業の努力、米国の景気回復が相まってデフレの進行速度は鈍り、平成14(2002)年初から景気は回復に向かった。景気が回復したことによって、結果的に金融機関の不良債権処理が進んだ

しかし平成19(2007)年6月時点で消費者物価指数やGDPデフレーターなどから判断すると、日本経済はデフレから完全に脱却することなく、平成18(2006)年12月を山として景気は既に下降線をたどりつつあるものとみられ、日銀がこの7月の参議院選挙の後にも行うであろう金融引き締めは景気に確実に悪影響をもたらすものと考えられる。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

フォローする