・山口県光市母子殺害事件
山口県光市で、平成11(1999)年4月14日、本村洋さんの妻弥生さん、長女夕夏ちゃんが、同じ社宅に住む当時18歳の少年に殺害された山口母子殺害事件については皆さんもよくご存じだと思います。そしてその後の裁判審理の過程で、死刑廃止論者とされる少年側弁護士が常識では理解不可能な理屈を唱えていることも、その少年の反省が見せかけだったのではないかと言われていることもご存じでしょう。
この事件は、法律という外的な規範がいかに精緻な体系を持ち続けていても、人々の内的な規範が失われてはなにもならないということを二重の意味でかいま見せています。この場合の二重とは、犯人の当時18歳の少年と、少年側弁護団の両方を意味します。
まず被害者と加害者の関係においては、法律はあくまでも行為が起きた後に適用される外的な規範であり、個人の心の中の倫理などの内的な規範が失われた社会では、限られた効力しかないということは明らかなことです。
つまり、内的な規範が失われた状態では、法律や取り締まりだけを厳しくしたとしても、犯罪はなくならないのではないでしょうか。しかも、被害者からみれば犯罪は起きてしまえば取り返しがつきません。死んだ人間は生き返りませんし、民事で損害賠償を受けても、労力、時間、心労などを考え合わせれば割に合うものではありません。
また、実際に法律のような外的な規範だけでことに当たれば、結果として犯罪者達は法の盲点を探すようになるのでしょう。それが社会をさらに住みにくくしてしまうでしょう。
・山口県光市母子殺害事件の犯人
この山口県光市母子殺害事件の犯人に戻ります。犯人は、内的な規範を失っていることは、事件後に知人にあてた手紙の内容からも明らかです。
「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」この手紙の引用されている内容が真実であれば、反省しているとか、あるいは自制心が未発達で衝動的に犯罪を犯したとかいうレベルの話ではないことが分かります。反省していたり、未熟であったりすれば、「犯罪は極刑に値するが、更正の余地あり」ということで減刑も考えられるでしょう。しかし、このように内的な規範を失った状態では、国家が刑の一環として洗脳することがとても許されることではない以上、更正も考えられないのではないでしょうか。
「私を裁けるものはこの世におらず」
「無期はほぼキマリ、7年そこそこに地上に芽を出す」
「犬がある日かわいい犬と出会った。・・・そのまま「やっちゃった」・・・これは罪でしょうか」
私は、以前ブログで述べたように
我々の体感的な印象とは異なり、統計上は未成年の殺人事件などの凶悪な事件は数十年以上前と比較してみると傾向的には減少しているということですが、このような一定以上の刑法犯については、未成年とはいっても、例えば14歳以上なら成人に準じた取り扱いをするなどの厳しい対応が必要なのではないでしょうか。(包丁で切断した指、カレー鍋に隠すより引用)と考えています。この考えは被告の場合は18歳でしたが、山口県光市母子殺害事件についても変わりません。
・山口県光市母子殺害事件の被告の真の敵は弁護団
現代の日本で、正義や倫理が失われていると大勢の人々が感じています。その根本に、法の執行に携わる人間から、広い意味でいえば行政に携わる人間も含まれると思いますが、内的な規範が失われていることがあるのではないかと考えます。法や行政に限らず、数々の談合、汚職、あるいはかつてはもてはやされた企業がさらす醜態などマスコミに取り上げられない日はありません。
ここまでは、山口県光市母子殺害事件の加害者の内的な規範が失われているであろうことについて書いてきました。しかし、内的な規範が失われていることが真に問題となるのは、加害者ではなく、周囲の法の執行に携わる人間の場合です。
簡単な例を取れば、いくら法が厳罰主義を取っても、法の執行に当たる警察官、裁判官、弁護士などから内的な規範が失われてしまえば、これもまた原始人の首狩りと同様になりかねないということです。
法律の適用を厳しくし、いわば厳罰化し、警察官の数を倍にしたところで、ビッグブラザーを生み出すわけにもいかないわけですから、外的規範だけで犯罪を抑止することはとても不可能です。法律による処罰は、報復としての役割を果たしますが、犯罪を抑止できるかどうかについては疑問があります。犯罪者が合理的に利害を計算する人間であれば十分な抑止効果を持つでしょうが、そもそも犯罪者が合理的な判断能力があるかどうか。さらにその警察官などの法の執行に携わる人間もまた内的な規範を失っていれば、一層、社会の混迷はひどくなります。法律万能主義的なアプローチには限界があります。
今回の山口県光市母子殺害事件のケースでは、安田好弘氏と足立修一氏をはじめとする弁護士が犯人の元少年の弁護を担当しています。私には、この弁護士が世間でいう道徳という規範を失っているのかどうか、まったくわかりませんが、先にも書きましたように、弁護側が一般人にはとうてい理解できないロジックを使っていることは事実です。
あるいは弁護団は、被告はドラえもんとか魔界転生といったフィクションを本気で信じていたと実際には事実ではないにもかかわらず主張し、それゆえ被告には判断能力がほとんどなく、当然のことながら責任能力はない。だから、死刑にすべきではない。こういったシナリオを描いていたのかもしれません。
しかし、下級審ではこのような主張は弁護団からもなされていません。となればこの主張は事実をねじ曲げるものである可能性が強いと考えなければなりません。事実をどう解釈するかで勝負するなら弁護士としての腕の見せ所でしょうが、嘘をねつ造するようでは弁護士の風上にも置けません。弁護士としてののりを越え、社会の共通の規範を無視したものだといわざるを得ないでしょう。
また、あくまでも個別具体的な証拠の立証や解釈のせめぎ合いであれば、無期懲役になることもあり得たかもしれないのに、弁護団は、当初、死刑判決をあまりに忌避するあまり傷害致死罪を主張したためにかえって全面的な争いになり、現在のように死刑判決に極めて近いところに追い込まれてしまったのではないでしょうか。
結果的に見れば、このような内容の弁護団の主張は、被告にとってもかえって不利益になったのではないでしょうか。
また、内的な規範について、それが社会から欠けていることは、どのように取り戻せばいいのか政治や行政からは直接にアプローチしにくい問題です。これをなんとか他の手段で取り戻せないでしょうか。例えば、経済学的なあるいは社会的ダーウィニズム的発想になりますが、激烈な競争に疲れ果てた中から規範、共感や相互信頼の必要性を国民が自ら気づくといったルートはないでしょうか。
それにしても我が国の最近の凶悪犯罪の被害者に本村洋さんをはじめとして、怒りを公憤に昇華させ、静かに毅然とした態度をとる方が多いことに気づきます。今のところ、それだけがこの社会の中で一条の光明であり、それゆえ国民的な関心がこのような事件に集まるのだろうと思っています。
以上、法律的な考え方にはなじみがないため、あまり説得力ある議論になっていないかもしれませんが、現時点の私の考えをまとめてみました。






