天皇、皇后両陛下が、26日ご訪問中のバルト三国の一国、リトアニアで杉原千畝氏の記念碑にお立ち寄りになりました。
杉原千畝といえば、日本のシンドラーと呼ばれる元リトアニア副領事で、昭和14年(1939)年ナチスドイツに占領されたポーランドからリトアニアに命からがら脱出してきたユダヤ人に、ほぼ1ヶ月の間、文字通り夜を徹して日本通過ビザを書き6000人もの命を救った元外交官として有名です。舞台や映画、物語にもなりましたし、その功績をたたえ、後にイスラエル政府からは亡くなる前年に「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・ヴァシェム賞)」を受け表彰されました。
外務省の意志に反してユダヤ人にビザを発給したために終戦後首になったとされていましたが、どうもそうでもないようです。外務省によれば「査証発給の責任を問われて外務省を解雇された事実はない」(平成6年9月)としています。ビザ発給以降も昇級もしていれば年金も支払われているということですから、本当のことでしょう。
杉原千畝氏が帰国した当時の昭和22(1947)年には、外務省は、敗戦後の処理により職員の三分の一を解雇するという大リストラの最中でした。外交官試験を通ったキャリア組を守るために、当時の外務省が、ベテランである杉原千畝氏をリストラしたのです。
しかし、やはりこのような杉原千畝氏に対する外務省の処遇は、少し考えが足りなかったのではないかと思います。
当時リトアニア副領事として赴任した目的が、独ソ両国に関する情報調査でしたし、そもそもロシア語が堪能すぎて戦前にモスクワ勤務をソ連政府に断られたという逸話があるほど有能でしたから、その後も、大使そのものではなくともイスラエル大使館、ソ連大使館、あるいは日本国内では諜報に関する部局などでの活躍の場もあったと思います。戦前のロシア研究の水準は大変に高かったということですから、外務省も、後先を考えずにリストラをして、ずいぶんもったいないことをしたものだと思います。
また、イスラエル大使を最終ポストにしておけば日本とイスラエルのパイプももっと強まったのでしょう。外務省の人事担当者は、ベテランの人を大使にすることはいやがると思いますが、そんな自分たちだけの組織の習わしを優先して、有能な人を活用しないことは、省あって国なしの典型です。
終戦直後の対応に問題がありましたが、別の課題として、杉原千畝氏の行動とナチスの政策に対する当時の日本政府の対応の在り方を世界に知ってもらう必要があります。特に、最近の米国での日本に対する過去の人権問題批判に対して、日本がナチスドイツとは違うということを伝えることができる点は忘れてはなりません。
そもそも現代のパレスチナ問題は、第一次大戦に際してのイギリス外交の失態が発端です。イギリスは、戦争協力を求める目的で当時のパレスチナの利害関係者にいい顔をしようとしました。すなわち、1917年11月のバルフォア宣言で、当時の英国の植民地であったパレスチナでのユダヤ人国家建設を認めると同時に、その裏では、サイクス・ピコ協定で、トルコ領の英仏分割を企み、また、フセイン・マクマホン協定では、アラブ国家の独立を約束しています。(このフセイン・マクマホン協定に沿って、アラビアを愛して英国によるアラブ国家独立の約束を信じて奔走するのが、映画になったイギリス軍軍人「アラビアのロレンス」です。 )当時は現代と違い秘密外交の時代ですから、ユダヤ、フランス、アラブへ三ツ股をかけていることを部外者が深く知るよしもありません。
ユダヤ人は、ナチスドイツの迫害に際して、いつかイギリスのチャーチル首相はパレスチナをユダヤ人に開放して、ユダヤ人国家建国を許してくれるだろうと期待をしましたが、まったくそのような動きはありませんでした。彼らは騙されたのでした。
米国にしても、同じような対応でした。昔、フェイ・ダナウェイが主演した「さすらいの航海」という映画がありました。これは、ナチスドイツの迫害から逃れた930名のユダヤ人がアメリカをめざしてセントルイス号という船で航海するというストーリーのもので、実話を元にしたものでした。劇中では、米国に上陸は拒否されたもののヨーロッパに再上陸が許可されてとりあえずの決着といったふうだったようですが、実際に彼らの大半がナチスドイツの強制収容所送りとなってしまいました。
つまり、国内に大勢のユダヤ人を抱えていた米国ですら、戻れば確実に迫害されるとわかっていたユダヤ人の上陸を拒否したわけです。米英のみならず当時のヨーロッパ諸国は、ナチスドイツのユダヤ人迫害を避難してはいましたが、当の迫害を受けているユダヤ人に、積極的に救いの手を差しのべることはありませんでした。
これら諸国の対応の背景には人種差別的な思想である反ユダヤ主義(アンチセミティズム:ユダヤ人はセム語系です)があります。日本には当時から現在に至るまでそのような思想はありません。むしろ、日露戦争時に、資金不足で軍事費をまかなうために発行した戦時国債を大量に斡旋をしてくれた金融業者ヤコブ・シフなどのユダヤ人に対する恩義の感情が強く、ナチスドイツによる迫害に対して同情するところが大きかったのです。日本もまたユダヤ人と同様に欧米諸国からいわれのない差別をされていたこともユダヤ人への同情の一つの原因でしょう。米国での日系人収容問題などは、程度は異なってもナチスドイツのユダヤ人迫害と同様の行為でした。その現れの一つが、もはや忘れ去られていますが、日本人とユダヤ人がおなじ祖先を持つという日猶同祖論でした。
このような事情から、外務省から杉原千畝氏に対する訓令も「ユダヤ人に対しては一般の外国人入国取締規則の範囲内において公正に処置する」という原則に基づいて、「通過査証は、行き先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の相当の携帯金を有する者に発給する」というものになったのだろうと推量します。これは、当時、日独防共協定を結んでいたにもかかわらず、日本はナチスドイツのユダヤ人抹殺という政策にまったく同調しなかったことを明確に示すものです。
とはいえ、外務省の公電解釈のグレーゾーンにあって、人命救助のため堂々とビザを発行し続けた杉原千畝氏の業績はいささかも輝きを失うものではありません。先にも書きましたように、今、日本を意図的にナチスドイツ並みの残虐非道な国であるとレッテル貼りをする動きがあります。杉原千畝氏の業績を発掘していくことによって、そのような動きがいかにミスリーディングなものであるのかも同時に明らかになってきます。これも時間を越えて杉原千畝氏の残したもう一つの業績ではないでしょうか。





