昨日の、経済同友会幹事の品川正治さんによる憲法9条講演会の内容に関する金子のメモの第一弾です。極力主観を入れずに興味深いと思った点を記録しました。もちろん文責は私にあります。
経歴 品川正治(しながわ・まさじ)
大正13(1924)年兵庫県神戸市生 元・日本興亜損保(旧・日本火災海上保険)社長、現・国際開発センター会長。東京大学法学部卒。著書に「9条がつくる脱アメリカ型国家」など。
・旧制高校在学中から、戦争や出征を意識して生活していた。出征すれば、戦死するかもしれないと考えていたのである。そこで、何とかして出征までに、カントの実践理性批判をドイツ語で読みたかった。幸いに、高校の先生の協力も得ることができ、他の科目はそっちのけで、2年間でドイツ語文法をマスターするなど猛勉強に励んだ。
・第二次世界大戦中の日本陸軍のパターンには、大きく4つあった。第一は、硫黄島、沖縄、アッツ島のように、米軍と激戦の後、はからずも玉砕してしまうパターン。第二は、インパール作戦、フィリピン戦線のように、兵站が途絶え、はからずも餓死してしまうパターン。第3は、満洲国の関東軍のように、戦闘は4日で終わり、ソ連によりシベリアへ抑留されてしまうパターン。
私(品川正治さん)は、それのどれでもなかった。鳥取の連隊に短期間配属されてから、直ちに大陸に送り込まれた。場所は、大陸のちょうど三国志の舞台あたり、西安(昔の長安)の近辺。
・三重県の津連隊は、京都第16師団に所属していて、一番厳しい戦地にいた。そこで三重県で戦時体験を話すことは少々はばかられる。
・当時の大陸には日本陸軍は100万人駐留していた。しかし、そのうち90万人は、北京、南京、重慶などの大都市の占領軍であり、治安維持を目的としていた。彼らの戦闘は散発的であった。一方で私(品川正治さん)は、残りの10万人の戦闘部隊の一人であった。
・戦闘を目的とした部隊であったので、部隊内での悪名高いいじめ、しごきは全く経験していない。本当の戦闘部隊ではいじめは存在しない。例えば、私は常に12発の手榴弾を身に帯びていた。もし、殴ったりした場合に、その晩戦闘になったらどうなるのか。何が起きるか。だから、戦後の戦友会でも、殴られたりした恨みはないので和気藹々としていた。
・戦闘中に負傷した場合でも、野戦病院までは、3、4日山中をさまよって単独でたどり着かなければならなかった。その方がこわい。だから、足を引きずっても部隊について行った。いまでも、右足に当時の銃弾が残っているので、今日はこのように座って話をさせていただいている。
・私(品川正治さん)には、昭和20年8月15日が終戦だとは思えなかった。というのも、国民党軍による武装解除は11月で、それまでは軍隊の形で大陸の同じ場所にいた。国共内戦に完全に巻き込まれていたからである。山西省残留日本兵問題をテーマにした映画「蟻の兵隊」の舞台は、となりである。弾薬の補給も重慶政府から来ていたし、終戦後に戦死した人もいる。
・捕虜収容所に、それから入った。多いときには捕虜が5000人もいた。内地への復員を待ちながら、交通の回復などにあたっていた。
続く
品川正治さんの講演について
経済同友会幹事の品川正治さんによる憲法9条講演会
経済同友会幹事品川正治さん憲法講演会内容1
経済同友会幹事品川正治さん憲法講演会内容2
経済同友会幹事品川正治さん憲法講演会内容3





